ある画家さんのはなし

従軍画家轟義雄と光西寺

光西寺の座敷に飾られた「普賢岳」画

 

 

 

 光西寺の座敷には一枚の絵が飾られています。
光西寺の小庭から見た雲仙普賢岳がゆったりのびのびと描かれています。座敷にお座りいただいた方々に、絵を見ながら前住職は「その頃の風景と全く変わらん」とよく話しています。
 
 戦後間もない昭和23年ごろ、ある絵描きさんが光西寺にしばらく滞在され、いろんな絵を描き遺していきました。ちょうどそのころ、前々住職が発願して「六角堂」と呼んでいる納骨堂が建立されており、その内部の板戸にも親鸞聖人や蓮如上人の一代記にまつわる絵が描かれています。絵には「轟」という銘が遺されているだけで、今となってはどこの誰かも分からない、売れない画家さんの絵という程度の認識で、絵は日常の風景となっていました。
 

昭和23年当時の六角堂と第15世住職 

 

 

 

 ところが、平成29年2月のある日、突然一本の電話がかかってきました。「そちらのお寺さんに、そのころ、絵描きさんが居られませんでしたか?もし、その方が描かれた絵が遺されていたら、拝見したいのですが…」という趣旨の電話でした。福岡県筑前町にある大刀洗平和記念館からのお尋ねでした。
 

 「絵ですか?ああ、たくさん、ありますよ」と気軽にお答えして、お話を伺ってみると、「轟義雄」という海軍従軍画家さんがおられて、「戦後に愛野のお寺で絵を描いていたように思います」という、今もご健在の娘さんの微かな記憶をたどって調べて、光西寺までたどり着いたようです。今年(平成29年)の春から初夏に、平和記念館の企画展として「紙上に咲く花 海軍従軍画家 轟義雄」が企画されており、その調査の一環のようでした。

光西寺の小庭から眺めた現在の普賢岳

 

 

 

 それから二度ほど平和記念館の職員が来られ、光西寺に遺されているたくさんの絵を写真に撮り、また、轟さんの娘さん(江原道子さん)とご家族の方々も「父親が描いた絵をぜひ見たい」ということで、わざわざ光西寺までお越しになり、いろいろお話を伺うことができました。


 轟義雄さんは、大正元年、福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)生まれ。20歳で海軍に入隊し、佐世保海兵団に機関兵として入団していますが、予備役編入後、独学で磨いた絵の巧さがかわれ、28歳の時に海軍従軍画家として上海などに派遣されています。その後、召集により佐世保海兵団に再入団、昭和19年には鹿児島県の鹿屋基地に赴任しています。


 「鹿屋から出撃する特攻隊員に、生花の代わりに花の絵を贈った」と語っていたそうです。終戦後は、家族を守るため、生涯を絵筆とともに過ごしたそうで、光西寺に滞在して絵を描いていたのもそのためだったのでしょう。

現在の六角堂

 

 

 

 江原さんの記憶によると、轟さん一家はそのころ佐世保市で生活されており、近所のお寺さんと家族ぐるみの親しいお付き合いをされていたようです。そのお寺さんの紹介で、愛野の光西寺にもやってこられたと想像されます。その佐世保のお寺のご住職と光西寺の前々住職(第15世 祐円)が、同じ宗派でもあり、同世代で親しくお付き合いをしていたことは間違いなく、新たに建立された六角堂に絵を描いてもらうために、佐世保のお寺さんから紹介してもらったのでしょう。


 江原さんは、父親がふっといなくなって、しばらくしたら、リュックいっぱいの野菜を抱えて帰ってきた、そんな父親の姿を記憶されておられました。絵を描いたお礼として、お米や野菜などを受け取っていたことは、昭和12年生まれの前住職も覚えており、六角堂に絵を描くかたわら、いろんな絵を描いて、そのお礼として農作物を受け取り、家族を支えていたのでしょう。実際、愛野町の門徒宅には、現在でも、お寺で描いてもらったという微かな記憶とともに、だれが描いたとも知られていない絵がいくつか遺されています。また、自分のランドセルに絵を描いてもらったと覚えておられる方もおられました。光西寺にも、猫や鳥が描いてあるタンスが現存しています。それは、娘の江原さんの記憶とも相応するようで、いろんなものにいろんなものを描いていた、本当に「絵筆とともに生きた」という言葉がぴったりのお姿が想像されます。

本堂余間に描かれた「雲」と「牡丹」

 

 

 また、佐世保の家族のもとに帰ってきた父親が、しきりに首をおさえて辛そうにしている姿も覚えておられました。おそらく、光西寺の本堂の余間の上部に描かれた雲の絵を描いて帰って来た時のご様子だったのではないでしょうか。その娘さん自身も母親、つまり轟さんの奥さんと二人で、父親が絵を描いて受け取ったお礼の野菜を持って帰るために光西寺を訪れたそうで、そのときには、「もう今日は遅いからお寺に泊まっていきなさい」と勧められ、実際泊まった記憶があるようです。今年6月に亡くなった102歳の老坊守に、その当時、お世話してもらったということでした。


 轟さんは「戦時下の作品と現在の作品とはまったく違う」と自らの絵を回顧していたようです。外出することをあまり好まなかったらしく、手許に遺っている父親の作品に風景画はなく、娘の江原さんは、光西寺にこのような普賢岳の絵が遺されていることをとても喜んでおられるようでした。


 今まで、だれが描いたともわからない光西寺に遺されているたくさんの絵が、不思議なご縁で70年以上の時を経て、生き生きとした人物像とともに立ち現れてきました。

光西寺に残された轟義雄さんの絵をご覧ください!  お寺にお参りの際は、実物をぜひ!

  • hugenndake

    光西寺庫裡の小庭から眺めた普賢岳

    昭和23年当時の様子がよく描かれています。
    現在と70年前がどのように変わっているのか、見比べてみてください!

  • 6527

    奥座敷の付書院上部に描かれた「鶴と松」

  • rentizu

    六角堂の前卓台座の「蓮地図」

    この絵だけが現在でも六角堂に遺されています

  • okuzasiki

    奥座敷に飾られた「釈迦像」

    「轟禧玖嗣朗画」という銘が見える
    戦後にそのような名前を名乗っていたことがこの絵によって分かります

  • syuuso4sai

    六角堂内の板戸に描かれた、親鸞聖人4歳のエピソード

    「ひそかに庭におり、泥沙をもて仏像三躯を造て、これにむかい礼拝恭敬あることしばしばなり」という伝記に基づく作品

  • syuuso4maie

    六角堂内の板戸に描かれた、親鸞聖人の御生涯にまつわる絵
     

    右から「出家得度(9歳)」、「六角夢想(29歳)、「石枕(35歳)」、「蛇身済度(50歳)」

六角堂内の板戸に描かれた、蓮如上人6歳のエピソード

実母との別れの際に描かせた、いわゆる「鹿子の御影」のエピソードをオマージュした作品

光西寺庫裡の小庭から眺めた普賢岳

昭和23年当時の様子がよく描かれています。
現在と70年前がどのように変わっているのか、見比べてみてください!

クリアファイルにしてみました!

箪笥に描かれた「山鳥と雉」と「鶯と猫」

日常の生活雑貨のありとあらゆるものに絵を描いていた轟さんをよく表した絵と言えます