「わたしがここに居てもいいんだ」と感じることのできるお寺をみんなで創りましょう

長崎県雲仙市愛野町に唯一の寺院として建立してから380年あまり。これまで地域の皆さんとともに歩んできました。

愛野町は農業が盛んな地域で、昔から地域共同体のつながりもしっかりしていて、光西寺はその人びとをつなぐ重要なコミュニケーションの場所として大切にされてきました。

時代が移り変わり人びとの生活スタイルも変わっていきましたが、光西寺がこれからも地域の皆さんの憩いの場所として息づいていくことを願いとして、「光西寺サタデープロジェクト(KSP)」を実施します。
毎週土曜日、お寺を広く開いて、いろいろな人が行き交い、安心できる居場所、元気が出る居場所を創造していきます。

光西寺のはじまり

伝えによると、光西寺の開基である釋祐忍は、肥後国玉名郡臼間南買村(現在の熊本県南関)の住人で「内藤勘左衛門」と言い、熊本藩主加藤清正の臣下であったとのことです。

 

文禄2(1953)年、京都・本願寺の第十二代・教如上人が、肥前国名護屋城(現在の佐賀県唐津)に陣を置いていた豊臣秀吉を訪問したそうです。その際に、勘左衛門は、宿縁ふかく、隠遁の心を起こし、教如上人の弟子となることを願い出たと伝えられます。

 

教如上人は、その勘左衛門の至誠なる志に感動して、法名「祐忍」ならびに画佛(ご本尊阿弥陀如来)を下付されました。

出家得度して「祐忍」と名告った勘左衛門は、故郷南関に帰ったのち、草庵をたて、ご本尊阿弥陀如来を安置して、その土地の人々に南無阿弥陀仏の教えを宣布されました。

この方が光西寺の開基と伝えられます。

 

第二世祐円は、初祖祐忍の法灯を相承して、南無阿弥陀仏の教えを伝えていかれましたが、その当時、熊本藩主加藤忠広は、どのような思いがあってか今となっては詳しくわかりませんが、大谷派(東本願寺)を禁制して、本願寺派(西本願寺)への改派を命じるということがありました。

しかしながら、第二世祐円は、教如上人と初祖祐忍とは師弟の因縁深くして、いかに藩主の命であろうとも改派に応じることは出来ずに、一大決心ののち、佛祖を荷負し長崎に渡り新大工町に居を構えられました。

 

寛永14(1637)年に島原の乱が起こると、その土地の人々はみな不安な毎日を過ごし、心身の拠りどころが見出せずに困惑するほかありませんでした。

寛永16(1639)年、島原藩主高力忠房は、切支丹追放のために様々な土地から僧侶を招き入れ、寺院を建立させていきました。 

このときに、二祖祐円はその請いに応じて、南高来郡野井村(現在地)に移住して草庵をたて、有縁の人々に南無阿弥陀仏の教えを説き伝えていかれました。

これが光西寺のはじまりです。

 

それより、3世慶忍・4世貞岸・5世暁山・6世暁音・7世暁洞・8世暁達・9世教了・10世義諦・11世義洞・12世義成・13世祐慶・14世義円・15世祐円・16世義英・17世円亮と相承血脈・法義相続して、愛野町の門徒方の尽力により寺運盛衰を重ねつつ、護持相続して今に至ります。

寛永16年(1639年)より今年2020年まで、381年が経過しております。

私たちの宗旨は浄土真宗です

 

 

 

光西寺は真宗大谷派に所属する、浄土真宗の寺院として、宗祖親鸞聖人の教えを伝えていくことを唯一の目的として活動しています。

【ご本尊】…………阿弥陀如来 南無阿弥陀仏

【正依の経典】……仏説無量寿経

         仏説観無量寿経

         仏説阿弥陀経

【宗祖】……………親鸞聖人(1173-1262)

【宗祖の著作】……教行信証、正信偈、三帖和讃など

【宗派名】…………真宗大谷派

【本山】……………真宗本廟(東本願寺)

公式サイトhttp://www.higashihonganji.or.jp/